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るーみあきゅー


――稗田阿求――


 迂闊だった。
 何が迂闊だったかと言うと、あらゆることがだ。
 季節の変わり目に夜を更かして、軽い風邪をひいてしまったことも。
 診てもらいに行った永遠亭で、兎を愛でるのに時間を忘れてしまったことも。
 帰り道、考え事に夢中になってしまい――知らないうちに、一寸先も見えない闇の中にいたこともだ。
 行きは良い良い、帰りは怖い。
 帰路は夜、人には優しくない時間。
 自著に気をつけるように書いておいて、自分が真っ先に踏み込むのだから世話もない。
 そこまで考えて、のど元に上がってきたものを飲み込んだ。
 不運すぎる。
 この闇の主たるルーミアは、どうやら夕餉の最中だったらしい。
 さっきから、歩けばぴしゃりと水音がするし。
 空気は生臭くて、むせて胃の中のものをまけてしまいそうになる。
 知らなかった。血に、匂いなんてあったんだ。
 私は、手に持った巾着からハンケチを取り出した。
 声を出さないように、戻してしまわないように、これ以上この匂いを吸わないように。
 鼻と口を覆って、私はゆっくりと歩き出す。
 見つからずに逃げられたなら僥倖。
 もし見つかってしまったのなら――残念ながら、稗田阿求の命は今日限りだ。
 けれど、ああ、やっぱり私の本は正しかった。
 だって、月明かりすら差さぬ闇の中――出口がどこかすら分からない。
 いや、どの方角に進めど、この闇がルーミアを中心に展開する以上、いつかは外に出られるはず。
 なのだけれど、私に出来ることといえば、身を縮めて牛歩で歩むことだけである。
 手探りで進むなどもってのほかだ。草木ならまだしも、ルーミア本体に触れたら次は私が餌になる。
 私はよく知らないけれど、弾幕戦の時に、当たり判定とやらを小さくするのと理論は同じだと思う。
 弾幕はルーミア、触ったら死。これはそんなゲームなのでしょう。
 なのに、心臓が止まりそうなほどに緊張しているのに、私の息はどんどんどんどん荒くなる。
 口を押さえた布の意味が無くなるくらい、私の呼吸はうるさくて。
 ええい、黙ってくださいよ稗田阿求、見つかってしまうじゃあないですか。
 そうしてまた、一歩を踏み出した足先が――何かを蹴り飛ばした。
 (――蹴ってない)
 そうして考えついてしまった想像。
 この何も見えない闇の中、私は何を蹴ったのか、という疑問の答え。
 私の思考は、その答えを否定したがる。
 (絶対違う、違うに決まってる)
 まるで蹴鞠のように、弾力のあるもの。
 頭はその、一度思いついた可能性を払拭してくれない。
 それでも思いこむ。
 無理にでも思いこむ。
 蹴ってなんていない。
 そう、蹴ったとしても、それはきっと違うもの。
 私は絶対絶対絶対絶対絶対――蹴鞠くらいの形と大きさの、人間の体の一部なんて蹴ってない!
 「――うっ」
 でも、想像してしまったのだ。
 静かな月夜の山道を、ころころ、ころころ、ころころ。
 笑いながら転げ落ちる生首が――。
 「うぇっ――――!」
 さっき飲み込んだと思った、胃の中のものが一気にのど元まで上がってきて――。
 吐いちゃいけない、吐いたら見つかる、絶対に見つかる。
 そう分かっていても、頭で考えて止められる肉体の反応なんて微々たるものだ。
 そんな、どうでもいいことを考えつつ――。
 「――? 誰かいるの?」
 「ひっ!」
 ごくん。
 突如声がかかり、それにびっくりして、のど元まで出かかっていたものは無事に胃の中へ戻っていった。
 なるほど、体の反応を強制的に止めるには体の反応を使えばいい。あっきゅん覚えた。
 しかし、問題はもう一つ。
 私はついに見つかってしまった。
 「――っ!!」
 その事態を認識した瞬間、私は足を動かした。
 弾かれたように走る。
 方向なんてもうどっちでもいい、走って走って走って走り抜けて、この闇の中から抜け出さないと――!
 でも、そんなに急いで走るものだから。
 「とっ!?」
 ごつん、という衝撃と共に目の前の闇に星が散った。
 「な、何が――」
 手を伸ばしてみると、そこは固い大木の感触。
 ああ、私はこれにぶつかったのか。
 そうやって、木を探る私の背中に、小さな手がぺたっと触れた。
 「みつけたー」
 「しまったぁー!」
 振り向いて、暴れて手を払おうとするもこちらは人間、あちらは妖怪。
 抵抗空しく、私はすぐに地面に組み伏されてしまう。
 「どうして逃げるの? 傷つくなぁ」
 仰向けに転がった私の胸の上から聞こえる声。
 話にしか聞かなかったけど、案外可愛い声をしている。
 これは、本当の姿が美少女だというのも本当かも知れない。
 「に、逃げますよそりゃあ。
 だって、逃げないと食べられるじゃないですか」
 そんな私の返しに、可愛い声は変わらないトーンで。
 「もう食べないよ? さっき食べたの大物だったから、もうお腹いっぱい」
 どういう意味で大物なのか。
 きっと、そのまま大きい獲物という意味なんだろうけど。
 「肉付き良かったんだよー。普段はほとんどない赤身がほどよくあってね。
 内臓以外のトコ食べられる人間は久々――」
 「か、解説しなくていいですから!」
 しかし、これで私が食べられることは無さそうだ。
 でも、だったらどうして彼女は私に馬乗りになってるんだろう。
 「……重いので、どいてくれませんか」
 「やだ」
 「それはまたどうして」
 「んー?」
 そうして、ルーミアは一拍の呼吸を置いて。
 「甘い匂いがするからー」
 私の胸に頬をすり寄せてきた。
 ――なるほど、食後のおやつと言うワケか。
 私は和服の胸の内ポケットから、平べったい板を取り出す。
 永遠亭で貰ったときは紙のパッケージに、アルファベットで大きく『MORINAGA 1918』と書かれていた。
 この闇の中では見えないけれど、このチョコレートというお菓子は幻想郷でも時たま手に入る。
 まあ、風邪をひいて永遠亭に行ったのに、どうしてこんなものを貰ったのかと言えば。
 飼われている妖怪兎の一匹が虫歯になったらしく、リーダーである詐欺兎に取り上げられたものが巡ってきたらしい。
 あの兎の性格から言って、こっそり自分のものにしそうなものだが。そこは健康に兎一倍気を遣う因幡てゐ。
 やれやれと溜息を吐きながら、彼女の手から直に私に手渡された。きっと、処分できればなんでもよかったに違いない。
 「……いります?」
 板チョコレートでルーミアの……おでこのあたりだろう、多分、見えないけど――をぽん、と叩く。
 すると、うん、もらうー。という声と共に、チョコレートが私の手から失われた。
 さて、私が得た情報どおりなら、そろそろルーミアは何かHなことをしでかしてくれそうな気もする。
 「……甘い匂いがするのに甘くない」
 ほらやった。間違いなくチョコレートを包む紙ごと食べている。むしろ紙を食べているのかもしれない。
 見えなくたって分かる。逆にルーミアも見えていないから紙を食べているのかもしれない。
 「その紙は剥がして食べるものですよ?」
 「そーなのかー!」
 その一言と共に、ルーミアの体は浮かんで、私から離れていってしまう。
 きっと、チョコレートを食べるのに夢中になっているんだろう。
 (今のうちに……)
 出来るだけ音を立てないように立ち上がり、素早くその場から走り去る。
 どのくらい走っただろう。暗闇の中で時間の感覚は無かったけれど。
 私を照らす月は稜線にほど近く、まだ夜は始まったばかりなのだということを教えてくれた。
 後ろを振り向けば、月の光すら通さないルーミアの闇が鎮座している。
 私がさっき、ここから抜け出せたのは兎にもらったチョコレートのおかげ。
 あの兎がチョコレートと一緒にくれた、幸運のおかげだ。
 そう考えると、彼女が人間に与える、四つ葉のクローバー程度の幸運は案外大きいのかも知れない。
 あのチョコレートを手放したことで、その幸運は既に私から失われてしまっただろうけれど。
 闇を背にして、私は人里への道を急ぐ。
 「――あ」
 その道の途中で、湖の氷精とかつて幻想郷縁起を貸し出したこともあるサイドテールの妖精がすれ違っていった。
 
 
 
 
 ――ルーミア――
 
 
 「――?」
 指についたチョコレートを舐め取りながら、周りを見渡す。
 闇をしまってみて、ようやく気が付いた。
 さっきまでここには私の他にひとり、このチョコレートをくれた人がいたはずなのに。
 その姿はもう、私の周囲には存在していなかった。
 「……行っちゃったのかな」
 快く譲ってくれたから、一言、お礼が言いたかったのに。
 「あ、いたいた。ルーミア〜」
 道の向こうから聞こえた声に反応してみると、歩いてくるチルノと大妖精の姿。
 ちょうどいいや。件の人が向かったのなら、前か後ろ、どっちかの道のはずだ。
 もしかしたら、すれ違ったりしてるかもしれないから――。



 ――稗田阿求――


 「――ん」
 古びた本から目を離して、こり始めた肩を叩く。
 本と言うには結構お粗末な、装丁すらされていない――紙の束を紐で綴じただけのもの。
 この、『守矢神社由緒縁起』、快く貸し出しに応じてくれた東風谷さんには感謝せねばいけません。
 どう見てもこれは原本、門外不出は免れていないものだろうに。
 今度の縁起の英雄伝のページ、出来る限り好意的に書いてあげましょう。
 しかし。
 「……小腹が空きました」
 太陽も中天を過ぎ、だんだん下がり始めた頃。
 今頃は女中の方々も、夕飯の買い物に出ているだろう。
 「一服にしますか」
 呟き、お茶とお茶請けを手に入れようと部屋を出る。
 稗田阿求は知っている。
 女中のみんなが、仕事の休み時間に紅茶などで歓談していることを。
 稗田阿求は忘れない。一度見たものは忘れない。
 だから覚えている。
 彼女たちが嗜む紅茶とお茶菓子が、何処に置いてあるかを。
 お茶請けは何にしよう。いやいや、先に紅茶の銘柄と味から決めるべき。
 ストレート? それともレモン? ミルク?
 ストレートやレモンならお茶菓子は甘いもの。クッキーなどが良いだろう。
 私だって少女なのだ。甘いものは嫌いではない。
 今から何を食べるかを考えるだけで心が弾む。
 お茶の時間は、あるだけで少女へのご褒美なんだから。
 そうして私は弾んだ心のまま、弾みをつけて襖を開き――。
 部屋の中を徘徊する、真っ黒い球体を見て思考を止めた。
 ――なんですかこれ。FOE? むしろ色的に階層ボス?
 そんなワケはない。むしろなんだ今の訳の分からない思考は。
 幻想郷を徘徊する、闇の球体の正体など一つしかない。
 問題は。
 「な、なんでここに……」
 どうしてルーミアが稗田家をふよふよ浮いているのかということに他ならない。
 最近は人里も開放的で。人を食べないのであれば、妖怪が入ってきても追い出したりはしない。
 だから、人里の中にルーミアがいても不思議ではない。
 けれど、どうしてそうピンポイントに私の家に侵入するんでしょう。
 チョコレートを、兎の幸運を失ったから一回転して不運になった。
 あるいはそもそも、稗田阿求自身が不運の星の元に生まれているのか。
 嫌だ、そんな全ての幻想を無力化する程度の右手を持った少年みたいなのは。
 そんな思考をしている間に、ルーミアはこっちにふよふよと近づいてきて。
 「――みーつけた!」
 言葉と共に体当たりされる。私の体は衝撃を受け流しきれず、慣性に従って背後へ――。
 「あたっ!」
 板張りの廊下に尻餅をつく。再び胸をこする感触は、ルーミアがまた頬ずりしているのだろう。
 (そんなことする、ということは)
 少なくとも私を食べる意志はない、ということと受け取って良いのだろうか。
 まあ、そもそも人里の中で人なんて食べたら、慧音さんが許しはしないだろうけれど。
 「んー。この匂い。間違いなくあの人ー。
 えっと、ひえだのあきゅうさん?」
 「はい、そうです、が――」
 話しかけられたことに、少しだけ驚く。
 会話が成立するのだから、話しかけられることに何の疑問もないのだけど。
 その、どこで私の名前を知ったのかとか、何の用でここへ来たのかとか、疑問は尽きることがない。
 「ねぇ、あっきゅん、って呼んでいい?」
 「別にいいですが……何処で私の名前を。そしてルーミアさんはどうしてここに?」
 そんな私の疑問に、彼女は。
 「名前と居場所は大妖精に聞いたの。
 あと、あの時はありがとうね。チョコレート美味しかったよ!」
 それだけ言って、頬ずりに戻ってしまった。
 「――それだけ、ですか」
 「――? うん、そうだよ?」
 呆然とした私の声に、答えるルーミアの声は無垢で。
 ああ、その言葉だけで、二言はないことが分かってしまう。
 「……ふふっ」
 馬鹿らしくて笑ってしまう。
 私はさっきまで、どうしてこの妖怪をこんなに恐れていたんだろうか。
 みんなどうして、この妖怪をこんなに恐れるんだろうか。
 百聞は一見にしかずとはよく言うけれど。私が知っていたルーミアの知識なんて、幻想郷縁起を書くために人づてに伝えられたものでしかない。
 話してみればなにか変わるかと思ったけれど。
 おやつのお礼を言いにくるなんて、なんて妖怪らしくない行為――。
 「あははははは!」
 これでは妖怪というよりも、近所の子供と言った方がしっくりくる。
 誰だ、縁起に会話が成り立たないとか書いたのは。
 こうして話してみると、近所の悪餓鬼よりもよっぽど素直な子じゃないですか――。
 「どうしたの? あっきゅん」
 言葉と共にふわり、と闇が私から離れる。
 私は自由になった体を起こして、その闇に向かって問いかけるのだ。
 「いえいえ。お気になさらず。
 ところで、これからお茶にしようと思っていたんですけど。
 ルーミアさん、ご一緒していきませんか?」
 ――そう、そんな訪問理由なら、家人に声をかけて堂々と入ってくればいいのだ。
 人に危害を加えないなら、妖怪であれ、大切なお客様。
 一人で嗜む紅茶もいいけれど、誰かと飲む紅茶もきっと美味しい。
 だってこうしてみると、色々と楽しいんだもの。
 思えば、私が他人に紅茶を淹れて振る舞うのははじめてなのだし。
 他人の評価を聞いてみたかったところ。
 「お茶? おやつ? 飲む飲む!
 あと、呼び捨てでいいよ、あっきゅん」
 ルーミアの言葉に、私はお湯でティーカップを暖めながら、
 「分かりました、ルーミア」
 そう、返すのだった。
 
 


 それからというもの、ルーミアはよく我が家に来るようになった。
 やることなんてひとつだけ。
 紅茶を飲みながら歓談して、いつものように別れて。
 なのに、それだけのことがやけに楽しい。
 今まで幻想郷縁起だのなんだので、私は家にばかりいたし。
 資料集めのために外出したとしても、その際の私は取材する側だ。
 もちろん、家の女中たちとこうして話すこともない。
 そう考えると、こんな風に何も考えずにただ話せる相手は、ルーミアが最初なんだ。
 最近人里では、稗田が妖怪を餌付けしはじめたと噂だけど。
 ルーミアはもしかして、阿礼乙女として産まれた私の初めての友達なのかもしれない。

 相変わらず、真っ黒で姿なんて見えないんですけどね。
 いつかでいいから、その闇の中のルーミアを私に見せてほしい。
 「ねえあっきゅん、おかわりちょうだい!」
 闇の中からちょこっと飛び出るお皿。
 のっかっていたみたらしだんごはもちろん無い。
 「はい、ちょっと待ってて下さいね」
 でも、どうしたんだろう。
 今日のルーミアはやけに食べる。
 いつもはお茶請けのおかわりは二回なのに、今日はこれで六回目……。
 考えながら、買い置きのみたらしだんごを見てみると。
 「あれ、最後の一本ですか」
 別の棚を開けてみても、他に買い置きのお茶請けが残っている気配はない。
 仕方がない。ルーミアには悪いけど、今日はこの一本でがまんしてもらおう。
 それにしても。
 「お昼抜いたんですか?」
 団子一本手にもって、ルーミアに聞いてみる。
 しかし、ルーミアはそれを受け取りながら。
 「そーでもないけど……」
 そんな、要領を得ない返事を帰してきた。
 「ちょっとね。
 最近出来るだけ、おなかいっぱいにするようにしてるの」
 「へぇ……」
 何故かは聞けなかった。
 ルーミアは最後のだんごの一番上のひとつを食べただけで、残りを私に突き返して来たからだ。
 「あっきゅんも食べない?」
 「いいんですか?
 ……あ」
 闇から出されただんごを食べてから気付く。
 このだんごは一串三兄弟だ。
 それを、私とルーミアでひとつずつ食べたから……。
 「……どうぞ、ルーミア」
 私はそうして、残った一つを彼女に差し出すけれど。
 「ううん、それははんぶんこにしよう」
 ルーミアはそう言ってくれる。
 「では、お言葉に甘えて」
 そうして私は、あまっただんごに横からかじりついて――。
 そのまま、闇に飲まれた。
 「――?」
 なんのことはない。ルーミアが私に近付いてきただけだ。
 だけのはずだったのに。
 「これではんぶんこ」
 闇の中で声が聞こえると同時に、だんごをくわえた唇にやわらかいものが触れた。
 (え)
 確かにはんぶんこだ。
 私が横からくわえただんごを、ルーミアもまた横からくわえただけ。
 確かにそうすれば、串の下の方にあるおだんごも簡単に二人で分けられる。
 しかし、もしそうなのなら。今、私の唇に触れたものは。
 「おいしー」
 ルーミアの声。
 闇で見えないけれど、もちもちと擬音が聞こえてきそう。
 ……気にしないで、いいのだろうか。
 本人も気にしていないみたいだし。
 けれど。
 きっとルーミアは今、みたらしだんごを美味しく食べている。
 先程の接吻が、気にされなくてよかったと安心する傍らに。
 少しは気にして欲しかった、と思う私がいるのはどうしてなのだろうか。




 ――ルーミア――


 空に出る月が、未だほそりゆく夜。
 お客は私一人だけで、二人して鰻の焼ける熱気にまみれる。
 「ルーミア、ちょっとつめすぎ。
 もう少しゆっくり食べない?」
 屋台の向こうのみすちーはそう言うけど、残念ながらそんな余裕はない。
 早く、早くおなかをいっぱいにしないと、またアレが始まる。
 いまならまだ間に合うんだ。
 「……とこらでルーミア、お代払うアテあるの?」
 店主みすちーの当然の疑問。もちろんない。
 「ツケでおねがい」
 「んもう……そんなにおなか空いてるなら、そこらで人間狩ればいいのに」
 ――ほんと、簡単に言ってくれる。
 それができないから、こんなとこでおなかいっぱいヤツメウナギを食べてるっていうのに。
 あっきゅんに会ってからしばらく、私は食人をやめていた。
 正確には、あれほど食べたくてしかたなかった人間に対し、突如食欲が沸かなくなったのだ。
 最初はさして気にしなかった。
 食べるものは他のものでもいいし、みすちーのヤツメウナギも、フランのお屋敷の料理も、私達みんなで作るごはんも、みんな美味しかったから。
 けど、その日はたまたま、ごはんを調達するアテがつかなくて。
 仕方なく、あっきゅんに食べさせてもらいにいったんだ。
 すきっぱらを抱えて、あっきゅんの家にいって、あっきゅんの顔を見た瞬間。
 私は全てを理解した。
 あっきゅんから漂う、甘い匂いに喉がなった。
 血よりもずっと芳しい、少女の香りに。
 ――人間が、食べたくなかったわけじゃない。
 妖怪としての私がいつの間にか、あっきゅんを極上のお菓子かなにかだと思っていただけ。
 それに気が付いてから、私はできるかぎり胃を満たすことにした。
 おなかをいっぱいにしていれば、あっきゅんに会ったって大丈夫だ。
 それでも、私は私に問い続ける。
 食べないでいいの?
 食べてもいいんだよ、それが正常。
 稗田阿求を、自分のものにしたいんでしょう――。

 けれど、我慢する。
 なにをしたって我慢する。
 私の中の妖怪は、もうひとつ大切なことを私に気付かせてくれたから。
 私が、あっきゅんを喰らってまでひとつになりたいと思っていること。
 それほどまでに、私はあっきゅんのことを好きなんだっていう本心を。




 「――ぅ」
 騒ぎ続けるおなかの虫に耐えながら、ベッドに転がる。
 大失敗だ。よりによって私は、大変なことを失念していた。
 みすちーの屋台で、鰻を詰め込めるだけ詰めてから2日。
 今夜は新月、昨日は新月の前の夜。
 みすちーの屋台がお休みだったことを、私はすっかり忘れていたのだ。
 おかげで、昨日からなにも食べていない。
 「……おなか、すいた」
 外にいかないと、食べ物を探しに外へ。
 もうすぐ日は沈む。丸一日なにも食べてない胃は、そう主張するけれど。
 「――ぜったい、ダメ……」
 外にいって何をする?
 食べ物を探す。
 どうやって?
 誰かにわけてもらう?
 空腹な私はいますぐ食べたいのに。
 手頃な人間を襲う?
 ……これだけ空きっ腹を抱えても、人間を食べる気にはならないのに?
 ならもう、やることは一つだけ。
 人里へ。一直線に人里へ。
 私が唯一、食べたい人間のところへ――。
 「だから、ダメ、なのに――」
 扉を叩く音がする。
 大事な友達の声もする。 
 
 

 ――チルノ――

 「ちょっと、開けなさいよルーミア!」
 あたいは力任せに扉を叩くけど、中から返事は返ってこない。
 昨日、みすちーの屋台はお休みだから。またみんなで、紅魔館にお呼ばれするはずだったのだ。
 なのに、待ち合わせの湖畔ににルーミアだけが来なかった。
 訝しんだあたいたちは、ルーミアの家に様子を見にきて。
 「……昨日はまだ、返事してくれたのに」
 悲しそうなフランの声も、むなしく夕闇に消えていく。
 そう、昨日の夜なら、まだルーミアはこの扉を開けてくれた。
 少し弱々しいけど、その顔をあたいたちに見せてくれたんだ。
 ……返事がこないことに怒ってるわけじゃない。約束を破ったことに、腹を立ててるわけでもない。
 でも。
 「ねぇ、ルーミアちゃん。
 何があったか知らないけど、ごはんくらい食べようよ。
 このままじゃ、体壊しちゃうよ……」
 大ちゃんの言うとおりだ。
 ルーミアはもう、丸一日なにも食べていない。
 なんでこんな、自分をいじめるようなことをするのか――あたいには、さっぱり分からない。
 「みんな!」
 そこに、空から降りてくる影ひとつ。
 「リグル!
 ……みすちーは!?」
 「竹林にいたのをつかまえたよ。
 すぐに屋台の用意してくれるって。橙も手伝ってるけど……。
 ルーミアは、まだ?」
 「……うん。何を言っても、全然出てきてくれないの」
 問うリグルに、フランが答える。
 あたいたちの中で、できるだけ早く、大量の食事を生産できるのはみすちーだけだ。
 だから、何も食べてないルーミアのために、リグルにはみすちーを探しに行ってもらっていたんだけど。
 「肝心のルーミアがこれじゃあ……」
 ルーミアをなんとかして家から出さない限り、みすちーの屋台には連れていけない。
 完全に手詰まりだ。
 このままじゃ、みすちーと橙がいくらうなぎを焼こうが意味がない。
 「焼けた鰻を、袋か何かに入れてくるって言うのは無理かな?」
 「冷めちゃうよ」
 リグルの案はフランにあっさり却下される。
 どうすればいいんだろう。
 昔話の神様じゃないけれど、ここで大騒ぎしてたってルーミアが出てくるわけじゃない。
 なんとかして、ルーミアにうなぎを食べさせないと――。
 「……屋台を、こっちに運んでくればいいんじゃない?」
 特に何も考えず、口からぽろりこぼれでた言葉だ。
 あたいのその発言に、みんなは目を丸くして。
 「そんな無茶な……」
 呆れた声を返してきた。
 「でも、そうでもしないと間に合わないよね……」
 答える声は大ちゃんのもの。
 「え、大妖精まさか」
 「やってみようよ。
 何もしないよりはマシだから」
 その大ちゃんの言葉に、リグルは少しげっそりするけど。
 「まあ……大丈夫かな。
 フランもいるし」
 なんだかんだで、手伝ってくれるんだ。
 「っと、その前に」
 大ちゃんが、それを扉の前に置いた。
 山みたいに積もったそれは、たくさんのお菓子だ。
 たい焼きやお饅頭、キャンディなどなどよりどりみどり。
 ルーミアのために、あたいたちが少しずつ持ち寄ったものを、
 「ルーミアちゃん。
 ここに、少しだけだけど食べ物置いておくから……。
 よかったら食べて」
 やっぱり返事は返ってこない。
 でも、もう少しでみすちーをここに連れてこれる。それまでの辛抱。
 準備が出来たら、引きずり出してでもごはんを食べさせてやるんだから――。




 
 
 ――ルーミア――
 
 
 ――扉の向こうから、気配が消えた。
 四人とも、どこかへ行ってしまったのだろう。
 私はそっと扉を開けて、そこに置いてあったものを手早く取り込んだ。
 大妖精が食べ物と言っていたものは、色とりどりのお菓子たち。
 まあ、チルノや橙が持ち寄るんだから、集まるのは自然とこうなる。
 かくいう私だって、お菓子以外の食べ物なんで家に常備してないし、今やそれすらもない。
 「……ありがとう」
 一番大きな、一抱えもある飴玉が詰まった瓶を開ける。
 とたんに広がる甘い匂い。
 ……あれ、これは確か、リグルん秘蔵のおやつじゃなかったっけ?
 遊びに行った時、ひとつだけちょうだい、と私やチルノがお願いしたにも関わらず、巌として讓らなかったのに。
 「……ありがとう、ごめんね……」
 飴玉を手一杯に掴み取り、そのまま全て口に放りこむ。
 ゆっくり舐めてなんていられない。
 リグルんには悪いけれど、せっかくの飴玉を片端から噛み砕いていく。
 がりがり、がりがり、がりがり、口の中に音と振動だけが響いて。
 「……ごめんね、本当にごめんね……」
 私は絨毯の上に、涙をこぼした。
 私がこんなに弱くなければ、みんなにあんな心配をかけずに済んだのに。
 私がこの、私も知らない自分の深部から来るものにもっと耐えられれば良かったのに。
 でも、それはまだいる。
 さっきからずっと、心の奥底中から私に囁く。
 ほうら、久しく人間を食べていないでしょう?
 血の味を、肉の感触を、筋の歯応えを、内蔵の柔らかさを、久しく堪能していないでしょう?
 あの子は逃げない。あなたがなつき、あそこまで心通わせたのだから。
 さあ、食べてしまいなさい。我慢は毒よ。
 きっと彼女は、あなたが今まで食べてきたどんな人間よりもあなたを魅惑してはなさない。
 それくらいに美味な果実。
 そんな飴玉なんて比べ物にもならないわ。さあ――。
 「うる……さい!」
 がりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがり。
 おまえなんかに言われなくても分かってる。
 いいから喋らないで。黙ってて。あ、いいや、満腹になれば自然と黙る。
 気にしちゃいけない。
 あの声が気になるのは、おなかが空いているからだ。
 お菓子を食べつくしておなかをいっぱいにすれば、もう気になんてしてやるもんか。
 (次の……お菓子!)
 リグルんの飴玉が尽きる前に、お菓子の山から適当に掴み取る。
 飴玉が終われば、すぐにそっちを口に入れるために。
 そして、飴玉はあと数個を残すのみ。瓶の底が見えたところでようやく私は、手に取ったそれに視線を移して。
 「――え?」
 自分が持っているものが、なんだか理解できなかった。
 いや、したくなかったんだ。だってそれを認めてしまえば、本当に我慢できなくなってしまうから。
 ……どうして、こんなところに。
 ……これが、あるん、だろう。
 漂ってくる甘い匂いが、私の脳を蕩けさせる。
 ――おなかすいた。
 この匂いはダメだ。どうしても、あっきゅんを思い出さずにはいられない。
 捨てないと、これを早く、家の外にでも捨ててしまわないと。
 これを持っている限り、あの声は大きくなるばかりになってしまう。
 ――おなかすいた。何か食べたい。
 甘く、甘く。ああ。
 ――その、人間の血なんかよりよっぽど甘美なお菓子は、凄い勢いで私の理性を奪っていった。
 ――おなかすいた。あっきゅん、あっきゅんはどこ。
 ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメダメダメだめダメダメだめダメ――。
 私はその匂いと衝動に必死で抗うけれど、
 そのお菓子の、甘い味が忘れられない。
 ほうら。どうしたの、いかないでいいの?
 声が聞こえる。
 分かってるんでしょう?
 口の中でとろとろと蕩けて、甘く熱く喉を伝う感覚が忘れられない。
 そう――
 声がする。
 そう――
 思考する。
 人間の血なんかよりもよほど芳醇。稗田阿求の血は、これと同じくらいに美味なのだ、と。
 「ああ、あ、あああ……」
 ぼたり、と絨毯の上に粘ついた液体が落ちる。
 ぽたり、とまた一滴。
 続いて二滴。
 牙を剥いた口から――水滴は止まらない。
 おなかすいた、おなかすいた、おなかすいた。
 ぽたり、ぽたり、ぽたり、あっきゅん。
 ぽたり、ぽたり、ぽたり、おなかすいた。
 ぽたり、ぽたり、ぽたり、あっきゅん。
 ぽたり、ぽたり、ぽたり、おなかすいた。
 ぽたり、ぽたり、ぽたり――――。








 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
 あっきゅん、あっきゅん。
 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
 あっきゅん。あっきゅん、あっきゅん。
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 あっきゅん、あっきゅん、あっきゅん、あっきゅん。
 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
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 ねぇ、あっきゅん。
 おなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいたおなかすいた
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                           だい す き だよ








 

 ――チルノ――


 そうしてあたいたちは、大空から地面へと急降下した。
 屋根の上にはあたいと大ちゃん。屋台の壁面には橙、リグル、みすちー。
 フランはその全ての重量を支えて、地面へと降り立つ。
 「着いたよ! これでいい?」
 あたいたちごと屋台を地面に下ろして、フランが言う。
 もう日はとっくに暮れて、あたりは真っ暗闇。ちなみにフランの日傘は橙が大事に預かっていたりする。
 「OK、ぴったりだよフランちゃん!」
 「ああ、屋台大丈夫かなあ」
 「むしろ、吸血鬼って凄いなあ……」
 大ちゃんの賛辞とみすちーの心配。リグルの驚愕を置いておいて、あたいは屋台の屋根から飛び降りた。
 「ルーミア!」
 そのまま、湿った地面を走る。ルーミアの家へ、ルーミアの元へ。
 ドアノブを掴んで、ええい、空いてなくても気にするもんか。
 屋台はここに来た、ルーミアを救う食事はここに来た。だったら――。
 「引きずり出してでも、食べて貰うからねルーミア――!」
 そうしてあたいは、鍵のかかったはずの扉を力一杯引いて。
 「――うぇ?」
 思ったよりも、ずっと軽い手応え。
 あたいの想像とは裏腹に、鍵なんてぜんぜんかかって無くて。
 自分の勢いを殺しきれずに、あたいは後ろにひっくり返る。
 「ちょっとルーミア、鍵締めてないならないって――」
 しかし、ぶつけたお尻をさすりながら見た、開いた扉の向こうには。
 ルーミアの家の中には――もう誰もいない。
 「――え?」
 ここにいるべき、ここであたいたちとご飯を待っていてくれたはずの友達の姿はそこにはない。
 「ルー……ミ、ア……?」
 家の中に見えるのは。

 ただ、部屋の真ん中に無造作に置き捨てられた、一枚の板チョコレートだけ。
 
 
 

  ――稗田阿求――


 (――寝苦しい)
 そうして目を覚ました私の目に映ったのは――見知らぬ妖怪の姿だった。
 (……え?)
 事態の飲み込みが遅れる。
 逃げようと試みるけれど、足も腕も動かない。
 ――どうやら。
 (おさえつけられてる……)
 その妖怪の手は私の手を、膝は私の足を、それぞれ押さえ込んで離さない。
 そう、例えるならばちょうど、あおむけに横たわる私に対して四つんばいとなる形だ。
 だから。私の瞳は自然と妖怪の真っ赤な瞳をとらえて。
 彼女――その妖怪は外見からして女の子――の金色の髪は、私の顔の両側へと垂れている。
 まるで、檻みたいに。
 さらさらと、私の頬を撫でながら――。
 ああ、そうか。これが新月の日に見られるという、彼女の本当の姿。
 月明かりのない闇夜の中だけど、私がこの子を見間違えるはずがない。
 たとえ、闇に覆われていない姿を見たのが始めてだとしても。
 「――どうしたんですか、ルーミア」
 けれど、ルーミアは私の問いには答えない。
 「ルーミア?」
 訝しんで見るけれど、ルーミアは変わらず黙するだけ。
 ただ、かぱっ、とその小さな口が開かれた。
 けれど、開いた口から声は出ない。
 変わりに聞こえるのは、ルーミアの荒い吐息と、寝間着である浴衣の胸に落ちた雫だけ。
 それが何かを、私が理解する前に。
 ルーミアは、私の首に口づけをした。
 しゅる、と私の浴衣がはだけて、肩口までがルーミアの前に露出して――。
 ぬめりとした、舌の感触から一歩遅れ。
 「――――――――――ぁ!!」
 激痛が。
 走った。
 あまりの痛みに千々に乱れる思考を、なんとか一本に纏めきる。
 分かる事実は、ただ一つのだけ。
 (噛み付かれた……!)
 声を出さなかったのも、痛みに混乱して暴れようとしなかったのも奇跡と言えるだろう。
 ルーミアの牙が刺さるのは鎖骨の真上、首から肩にかけて走る筋肉……そう、僧帽筋とかいうあたりだろう。
 (……動いちゃダメ、動いちゃ……)
 痛みの熱で少しぼやけるけれど、私に右肩には今、妖怪の牙が刺さっているのだ。
 動けば傷口を広げるだけ。このままが正しい――はずだったのに。
 ぐい、と引っ張られる感覚がして。
 「ぅぁ……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁ!!」
 ルーミアがいきなり首を動かした。いや、そんな生やさしいものじゃない。
 (かみ、ちぎる……つもり……)
 痛みに反射的に上体を起こし、肉を持っていかれることは防いだけれど。
 「ルぅ……ミァ……」
 あまりの痛みに涙がぼたぼたとこぼれ落ちる。
 噛みちぎられてないのは全くの幸運だ。
 未だに彼女は首筋に噛み付いたまま、この状態では顔は死角。
 私が見れるのはうなじくらいで――表情なんて見えやしない。
 だから、ルーミアが何を考えているのか分からない。今までは姿が見えなくても、なんとなく分かったっていうのに。
 今のルーミアは――。
 (ルーミア、じゃない――)
 いや、もしかして。こっちが本当のルーミアだったのか。
 だって、妖怪は人間を食べるものだ。最初にあった時だって、彼女は絶賛食人真っ最中だった。
 だから――。
 (これまで、食べられなかったのが、奇跡で)
 今になってようやく、私の番が回ってきただけなのか。
 (――食べられたくは――)
 ないなあ、と思う。
 30まで保つまいと思った命だけど。こんなに早く散らせてしまうのは惜しい気がする。
 けれど。
 ああ、でも。
 (――それでもいいかもしれない)
 今、気が付いた。私は、私が行う目的は全て達したんだ。
 そうだ。ルーミアと友達になったことで、稗田阿求の役目は全て終わっている。
 「――ルー、ミア」
 泣きながらだから涙声になってしまうけれど。
 彼女の記憶に残る最後の私が、こんな姿であって欲しくなかったけど。
 「お願いが、あり、ます」
 ――思えば、御阿礼の子は孤独だった。
 100年の時を越えて転生しても、知り合いも何もかも死に絶えて。
 変わってしまった世界に、いつだって一人で立たされて――。
 縁起を書くために、主観を捨てるために。
 縁起に関する記憶だけを残して、稗田の全てを一度リセットしないといけなかったとしても。
 ――誕生は祝いから始まって。伝説に伝わる御阿礼の子を、誰もが祝福して。けれど。
 祝ってくれた人の中に、稗田阿礼を、他の御阿礼の子を知っている人間なんて一人も居ない。
 せっかく、帰ってきたのに。迎えてくれる人も居ない。私の前の稗田はどんな人間だったのか、教えてくれる人も居ない。
 幻想郷の全てをまとめた縁起を書いた人間が、自分のルーツ一つ辿れないんだ。
 こんなに滑稽なことがあっただろうか。
 だったら――。
 「待っていて、ください。
 私、帰って、きます、から。100年くらい、あと、に――」
 この子が待っていてくれるなら。
 私がここで果てることに、なんの未練もないじゃないか――。
 こんなに嬉しいことはない。1〜8は埋もれてしまったけれど。9番目からは、私は自分のことも記録できるのだ。
 そう、妖怪が人を食べるのが摂理なら、それに逆らったって仕方ない。だから。
 「ルーミア……また、会いましょう」
 そう言って、目を閉じる。体から力だって抜いた。
 彼女が、私を好き勝手に蹂躙できるように。


 なのに、その牙は私の体から抜けていってしまった。
 「……ルー……?」
 目を開いても、宵闇に紛れてしまったのか、もうルーミアはどこにもいない。
 最後に残ったのは、頬を打った水の感触。
 「……しょっぱい」
 ――ひとつぶの、涙。
 
 
 
 そして、それから一時間もしないうちに。
 新月の闇に紛れてか――成り立ての妖怪たちが群れを成して、人里を襲った。






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 あとがき

 そんなものはない